30年前の今日。1995年のことです。
時間を調べますと5時46分だったそうです。
あの朝はその2時間ぐらい前に寝たので多分深い眠りについていたと思います。
それがフローリングに置いていたベッドの足にはキャスターがついており置いてた位置から隣のリビングまでベッドが激しく流れ動きどこかにぶつかってベッドが止りその振動で目が覚めました。
5階に住んでいたのも関係してるでしょう。
食器棚から食器が落ちて割れる音やコンロに置いていたお鍋にはお水を張ってありお鍋が落ちてその大量のお水がキッチンの床中にあふれて….
一体何が起きたんだろうとしばらくは呆然としていました。
当時携帯はちらほら持っている人はいましたがまだまだ身近なものではありませんでした。
わたしは仕事柄持っていましたが知り合いに連絡しても誰にも繋がりませんでした。
固定電話は最初から繋がらなく携帯で固定電話に電話してもダメ。
電話が繋がらない程の出来事って一体なんだろう。
両親は大丈夫なんだろうか。
妹は?友達は?
どうしたらいいんだろう…
まだ外は暗くて明け方の出来事でした。
嬉しがりと言われて
テレビをつけてみて見ると神戸やその付近に巨大地震が起きて大変なことになっていると放送されていました。
地震があったんや….
だからあの揺れが….
震度3の大阪であの揺れと言うことは神戸のみなさん怖かったやろな~と体が震えました。
とりあえず何もすることが出来ないわたしは何度も何度も両親や妹そして上司や同僚に電話をしてみましたがやはり繋がりません。
時間が来て職場に行ってみてもシャッターが下りていて誰も来てはいない様子。
みんな大丈夫だったのかなぁと心配しましたが連絡が取れないのでどうすることも出来ませんでした。
次の日ぐらいにやっと電話が繋がり身内は愛知県と東京なので被害はなかったようで安心はしましたがテレビにくぎ付けになり状況をただただ見ているしかありませんでした。
恥ずかしい話ですがそれまでのわたしは災害などがあっても
へ~大変やな
それぐらいしか思ったことがありませんでした。
対岸の火事と言う言葉がありますが他人事だったんですね。
自分に関係がないと興味もなく….
それが何故かこの震災の時はいても立ってもおられず職場が元に戻っても悶々とする日が続きました。
毎日テレビでしている被害を見てお隣の県が大変なことになってる。
いや大阪にも被害が…
なにか自分に出来ることってないんだろうか。
そればかりを数日思ってました。
1月と言うと激寒です。
家を失った人達が灯油の缶で暖を取っていて炊き出しの暖かいものを食べながら
もう泣くに泣けない。
泣くことすら出来なくて笑うしかない。
家族を失い仕事を失い焼野原になった神戸で….
お隣近所の人達と炊き出しを食べながら帰る場所もない状況をテレビで写していました。
仕事に行っても笑うことも恐縮してしまう。
なにか出来ないんだろうか…
そんなことを同僚に言うと
ボランティアでも行ったら?
ボランティア?
名前は聞いたことがあります。
でもそのボランティアって何?
簡単に説明を聞くと人様の為に自分で出来ることをする。お手伝いをする。
そんなものがあるんや….
恥ずかしいですね。ボランティアの意味もまったく知らなくてそれまで生きてきたんですね。
そしてそのボランティアをするにはどうしたらいいん?
当時ネットはまだ世の中の一握りの人しかしてなかったと思います。
PCを持っている人もその限られた人しかいませんでした。
どうしたらボランティアが出来るんだろう….
とにかく被災地に行かなくてはいけない衝動にかられて周りの人に聞いてみました。
そんな時に以前の職場の上司からたまたま電話がありそのことを言うと
アンタ何嬉しがってるん
嬉しがってるってどーいうこと?
あちらは大変なことになってるんやで
興味本位で被災地に行ってお手伝いする自分を嬉しがってるんちゃうん。
そんなつもりはないで
そう言うと元上司は
そんな真っ赤な長い爪してボランティアとか
長い爪があかんなら切るし….
それよりもなにかしたいと言う気持ちを嬉しがりと言われてそれがかなりショックでした。
わたしがやろうとしてることはいけないことだったのでしょうか。
それでもなにかがしたいと言う気持ちが収まらなかったわたしは…
ゴミ拾いでもいい。
炊き出しのご飯を作る係でもいい。
両手がある。
何か1ミリのことでも出来ないだろうかと考えました。
宝塚市
あれこれ知り合いに聞いてみると神戸市役所に電話してみたら?と言われかけてみました。
でも電話は繋がりません。
そこで被害があった地域をテレビで見ると兵庫県全域が震災に合っていたんですね。
タウンページを出してきて兵庫県の市役所を順番に電話してみると繋がった宝塚市。
ボランティアに行きたいことを言うと歓迎してくださり服装なども教えて頂きました。
ホントに何か出来るんやろか…
不安な気持ちのまま職場に電話をかけて二日休むことを伝え翌日宝塚市の市役所に向かいました。
わたしがしてきたことは体育館での救援物資の仕分けです。
保育園の先生がリーダーになってわたし達に指示を出していき必要なものといらないものを分ける。
ただそれだけでした。
宝塚市の市役所周辺は災害があったとは思われないほどキレイでとても震災があったようには見えませんでした。
でも全国から何千人も集まったボランティアの人並を見ると確かに被災したんだろうなと実感しました。
送られてきた救援物資の中身を見るとショックなものもたくさんありました。
被災した人達の為に送ってくれてるはずなのに家庭から出るゴミのような物も…
1個の段ボールに着なくなった下着やらさっきまで履いていたサンダルを入れてそれでもみかんとお手紙が入っていたり。
そういうものは全て処分です。
この時のボランティアでわかりましたが被災地に送るものは新品じゃないと使わないんですね。
段ボール一つ一つを開けながら使うものはこちらに。
使えないものはこちらにと仕分けをしながら
なにか役に立ってるんかなぁ
疑問に思いながらも朝から夕方まで物資の仕分けをずっとしていました。
たったの2日間でした。
ホントはもっともっとなにかがしたい。
でもそれ以上休むわけにはいきません。
自分がやれること。
多分髪の毛1本ぐらいの細いものだったと思います。
それでも誰かがなにかをしないとなにも始まりません。
そこに髪の毛1本かお米一粒ぐらいの力しか持ってない自分に自己嫌悪になりながらも初めてのボランティアが終りました。
嬉しがりと言われたことがすごくショックだったのでボランティアに行ったことは友人にも言いませんでした。
みんな神戸大変やな~とただ言うだけよりもその髪の毛1本の微々たるお手伝いは誰かのお役にたっていたらいいなぁと小さな願いでした。
震災があると
あれからの30年。
最近でも能登に地震があったり2011年には東北に震災がありました。
どの災害も当事者の人達の八方塞がりの気持ちはわたしにはわかるはずはありません。
その場にいなかった者がどう感情を収めればいいのか…
何も出来なかったけれども忘れてはいけない。これからの人達にもそれを伝えて行くことは人生の先輩なのではないでしょうか。
寄りそう気持ち。そして寄り添う心これをいつも思いながら過ごして行かなくては…と思っています。
わたしはもうボランティアに行くことは出来ませんでした。
それでもなにかがしたいと言う気持ちがなくなったわけではなく今の自分に出来ること。
東北の震災の時にはたくさんの出品者さんがいたのでそれぞれに物資を送りました。
そして何をしてもらったら一番助かる?と聞くと
わたし達は生きてるから大丈夫
東北の為になることをして欲しいと言われたので考えてみました。
それは募金ですね。
それと乾電池を送ること。
どこの震災も必ず乾電池が不足するそうです。
その被災地のことを想像し役に立つにはまずお金と乾電池。
後から調べてみると阪神淡路大震災の時のボランティアの数は130万人だったそうです。
わたしはその130万人の中の一人だったんですね。
一人の微々たる想いでもたくさん集まれば大きな力になる。
それにこれからも参加していきたいと思っています。
そして災害がいつあるかもしれないと想像して家には乾電池を買いだめしてあります。
コメント